Entre la poire et le fromage 

『洋ナシとチーズの間』 フランスのよしなしごとを徒然なるままに

Googleのロゴ/ Happy Earth Day!

 若い時に比べ、落胆したりカンドーしたりということがなくなった。20代の半ばぐらいまでは、それでも結構きつかった。「繊細な感性」は若者の特権だけど、事あるごとに傷ついたり、あるいは震えて立ち上がれないほどの感動を得たりして、心も体も忙しかった。よくそんなエネルギーがあったものだ。他人から見れば些細な事柄でも、その時々の自分にとっては「一生を左右する切実な問題」であり、中間なんて存在しなかった。明日とは『希望』か『破滅』かのどちらかで、フツ―という物差しを持たなかったのだから、仕方ない。それなりに切羽詰まっていたのだ、いろいろと大変だったんだ、と思う。若さだけでなく、もちろん先天的、あるいは後天的特性もある。どんなに若くても、驚くほど冷静かつ頭が切れる人もいれば、逆の意味で物事へのリアクションが弱く、薄い人もいる。優越の話ではない。個人的には「何かが極端に突出し、その分何かが極度に欠如している」という状況、性質にマニアックなまでに惹かれてきた。作家、作風、気がつけばそのようなものを自然に選び取っている。結果的に、高校時代はロシア/仏文学にハマった。

 『中庸』がよしとされる日本社会においては、この性質は早い段階で修正しないと、集団で生きていけない。バイキン扱いされ「ゲージュツ家にでもなってのたれ死ね」と信じられないセリフを言われておしまい。でも一方で、岡本太郎やピカソみたいに「芸術は爆発だ!」と叫び続け「個」を生き抜く人たちもいる。彼らが決して楽だったわけじゃない。しんどさを全部飲みこんで、表現や創作のエネルギーに転換してきた。

 ところで20代までの「触れたら火傷するぜ」的熱さは、それがどんなに自らの習性に元づくものだろうと、ある「分水嶺」をこえた時点で、急速に弱まっていく。いいことか悪いことかは分からない。たぶん人生が進むにつれ、純粋さと引き換えに色んな防御策を身につけてしまったのだろう。ランボーが長生きしなくて良かったと思う。うまい痛みのかわし方を覚え、別の何かでマッサージをしている。敵や詐欺師を、向こうがやってくる前に見わけ、近づかない技も知る。何せ彼らは一人として「ワタシ詐欺師です」と書かれた名刺を持ってはこない。初対面の時は、ニコニコと優しい顔で「あなたの味方です。助けてあげます」と近づいてくるから、若い時はそれなりに痛い目にもあった。お金も失った。でもこれだけは、と胸を張れるのは、いのちと魂だけは売らなかったこと。奪われたのは、立場や、それに付随した信用だったりする。そのことで、人生後退したような気もしたしへこんだりもした。長い眼で見るとまあそれも「大したことないじゃない」と言えるようになった。人生には、もっと悲惨なことが一杯ある。「信用」のような、目に見えないものを失うのは辛いが、今考えるとそれも私の「立場」に対するもので、私個人に対してのものではない。分かり易く例えると、会社の名刺でどれだけ人脈をつくっても、辞めたら見向きもされないという感じに近いかもしれない。あくまで例えです。

 今日はそんな重い話をしようと思っていたわけじゃない。冒頭から済みません。

 日々の中で誰にでも一つぐらい「なくてもいいけど、あればあったでチェックしちゃう」何かがある。ある人にとっては今朝見た夢や、ホロスコープだったり、朝食の目玉焼き具合だったり、受付嬢の機嫌(ニッコリほほ笑んで、挨拶してくれたか)という、その日のバロメーターになるものだ。私は子供のころからこの手の占いや迷信をまるで信じないタイプで「なくてもいいけど」どころか「どうでもいい」と切り捨て、例によって過去いくつかの物事を失ってきたみたいだ。(友人とか、得られたはずの好機とか?)。

 そんな自分が実はわりとチェックしてしまう、「あるもの」がある。Googleのロゴだ。毎日パソコンは立ち上げるわけだから、必然的にほぼ365日目にしていることになる。フランスにいようとアメリカだろうと、全世界共通だ。「日めくりカレンダー・世界版」的な興味を掻き立てられる。『温故知新』『臥薪嘗胆』みたいな標語も一切出てこないから、それについて一日悩んだり、自らを省みたりする必要もない。

 基本的には祝日がベースとなっている。ニューイヤー、ハロウィン、クリスマス、バレンタイン、父の日、母の日、こどもの日、日本の七夕なんてロマンチックなのもあった。国際的に知られる女性デー、なんてのも毎年つくられている。そして次に多いのは偉人の生誕何周年、あるいは世界的大事件の何周年、というものだ。発明界からはキュリー夫人、エジソン、音楽界からはドビュッシー、ジャズのエラ・フィッツジェラルド、ロッシーニ、美術界はクリムト、ロダン、文豪で優れたデザインだったなあと記憶しているのはカフカ、ディケンズ、マーク・トウェインなんてトムソーヤの冒険の男の子がペンキ塗りしていたため一発で分かる。そう、このロゴ装飾は優れた発案もさることながら、それが有機的デザインに結びついているかどうかがポイントなのだ。偉大なる人物であっても、デザインがうまいこと「google」のアルファベットにリンクしていないと意味が無い。ドアノーは、ただ有名な写真が重なっているだけでちょっと期待外れだったし、フランソワ・トリュフォーの時も少年が佇んでいるだけでもうひとひねりあれば、と思った。その点、ニコラウス・コペルニクス生誕130周年や、ツール・ド・フランス100回記念はこのアルファベットがうまく生かされ、私の中で「デザイン賞」に輝いている。ジューヌ・ベルヌの誕生日なんて、こちらも潜水艦の中から海の底を眺めている気にさせられ(アルファベットのOの字が窓になっている)思わず「ネモ船長っ」と叫びたくなる。さすがに米国発祥らしさを見せたロズウェル事件何周年(中央のOの字がUFOになっていてクリックすると新聞記事が現れる)、スティーブ・ジョブズやマンデラ大統領追悼の時には、一見何の変哲もない通常ロゴの下の名前の部分をクリックするとサイトへ飛ぶ仕組みになっていた。手が込んでいる。モダンダンスのマーサ・グレアム117回誕生日には、いきなりロゴが踊りだしたこともあった。この時はほんとうに感心してしまった。制作者のライアンさんのHP Ryan Woodward Art and Animation で、現在もみることができる。グレアムメソッドはモダンダンサーにとってはこんにちなお有用な手法だが、日本でぱっと分かるかというと少ないかもしれない。アメリカ舞踊界においては神様みたいな存在だ。ダンス界だとドイツの舞踊家ピナ・バウシュやフランスならモーリス・ベジャールで作ってください。(どちらも近年他界、世界的な偉人にはちがいない)googleのサイトをみると、デザインの公募は受け付けているみたいだけれど、私のように作ることができない人間の、単なるアイディアは、どうやって担当者に届けたらいいのだろう?

 今日のロゴは「ハッピーアースデー」トップページの「アカフトオハチドリ」のイラストが秀逸。鳥をクリックするとぱたぱた羽を動かして、「スカラベ君(ふんころがし)も大興奮」とか烏帽子カメレオンとか、フグが回転したりしている。普段こうしたアニメーション画像に興味のない私でさえ、無条件に見入ってしまうほどのかわいらしさ。

 コラムとエッセイ集出版のために奔走していた。ほんとうは雑誌連載で、毎回を描いてくれる人を探していたのだけれど。こんな和やかなイラストを手掛ける人になら、依頼できたら、こころから嬉しい。

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