Entre la poire et le fromage 

『洋ナシとチーズの間』 フランスのよしなしごとを徒然なるままに

Un pour Tous 、Tous pour Un/ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために

 三銃士には有名なセリフ、Un pour Tous 、Tous pour Un が出てくる。4人とも男だから男性形だ。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」と訳されている。

 大学時代、私は体育会のワンダーフォーゲル部にいた。ダンスを忘れるためだった。とにかく身体を酷使する体育会の部なら、どこでもよかった。逃げ出したくなるような4年間を送る、ただそのことだけが目標だった。体育会の強い三流の私立大学だったから、正規の体育会本部の門を叩いても、スポーツ推薦で入ってくるような連中ばかりで、初心者はまず門前払い。受け入れ可能なのは、唯一山岳部だと紹介され、行ってみれば女子はマネージャーの募集で、部員としての活動は不可。海外遠征の準備や渉外などの事務作業のみだ。自身で活動したいなら隣の部屋へ行けと。そこがワンダーフォーゲルの部室だった。女子でも正規部員として入部を許可され、結果、私は4年間をどっぷり自然と共に過ごした。

 女子を受け入れてくれたからという消極的な理由だけではない。一つ上の先輩が言った「山岳部とワンゲル部の違い」だった。同じように山に登るけれど、いったい何が違うのか。いろんな答えがあった。曰く「山岳部はエベレストに登るけれど、ワンゲルはアメリカやニュージーランド、モンゴルなんかに行く」。う~ん。あるいは「山岳部は8,000メートル登った奴より8010メートル登った奴のほうが偉いけど、ワンゲルは自然に対して自転車だのカヌーだの様々な手段を使い、いかに入りこめるかを楽しんだ奴の勝ち」。50点。「山岳部が垂直方向を目指すとしたら、ワンゲルは水平方向を目指すんじゃないかな」。SoSo(まあまあ・・・)。それなりの回答はいくつかあったが、すとんと来たのは「山岳部は、ひとりが登頂すれば成功。でもワンゲルは、ひとりでも脱落させたらその合宿は失敗だ」というフレーズだった。

 前者の場合、目的はエベレスト登頂であり、チームの中で誰を犠牲にしようと、最終的に一人を頂上に送りこめば、成功ということになる。誰が犠牲になり、誰が大学の旗を頂上で降ろうが構わない。だからこそ、多くの駆け引きやドラマが生まれる。仲間内でも信じられないような裏切りや、スポンサーとの金銭の取引、マスコミ操作など、その辺は数々の山岳小説、特に海外の優れたものを読んでください。当時は夢枕獏さんの『神々の頂』(上下)がバイブルだった。

 それに比べて、ワンゲルは明らかに「団体競技」である。チームワークを大事にするから、誰かを蹴落としてでも自分が、という考えとは異なる。どうしたら全員がうまくいくかを念頭に考える。レギュラーも居なければ補欠や控えもいない。もし一人脱落したりけが人が出たりすればそれは計画に無理があったということで、リーダー、ひいては皆の責任ということになる。だから、合宿以外の時は全員で厳しいトレーニングを行う。まず、そういう決定的な違いを理解し、納得の上で入部者を集う、男女関わらず、ということだったんだと思う。

 何故、急にこんなことを思い出したか。昨日、street jazzとhiphopのクラスに出たからだ。先月、衝撃を受けて以来、ずっとJ先生は復活祭のバカンスでお休みだったのだが、ようやくこの3時間ぶっ続け、ストイックなクラスに出ることができた。休講の間は、アップされた動画を見て振りの研究をしていった。正直「ついていけるか」と、緊張していた。3時間もハードな踊りをつづけるのは中学のダンス部以来か、いやバレエ団の時も5時間ぐらいは平気でいたが、それはちんたら別のこと考えながらバーレッスン、だった・・・。何故30代後半にもなって、一分一秒全力投球、しかも理解ままならぬ仏語で、である。踊りにやってきた来たわけではないのだが。なんだかんだいっても、結局はその人が自らのうちに抱え込んだ『業』、本当にやるべきことしか「できない」ように導かれていくのかも知れない。 

 ヨガやバレエのクラスは、渡仏以降も受けてきた。でも何故かennui(アンニュイ・退屈)で、心を震わせてくれるものに出合えなかった。どうしてこの先生のクラスだけはついて行こうと、毎日通っているのか。J先生の振りにある特徴的な「一体感」が私を惹きつけたのだと思う。

 私が最初にダンスを始めた時、それはジャズだった。みんなと一緒に踊る楽しさだった。うまいとか下手とかじゃなく、同じ振りで、団体でひとつのものを作り上げていく強さ、凄さ。異なる人間同士が一体となって前を向く、すさまじいエネルギー。そういうものが好きだった。だからクラシックバレエも相当レベルまでやったけれど、個人的にコンクールで賞をとるためといった動機ではなかった。仲間と一緒に、上を目指したかった。

 外国のオープンクラスで踊ると、例えばNYのBDCなど、また違ったエネルギーが渦巻いている。有名な先生が振付けるのを、生徒は必死で体得し、時に生徒が教師を凌駕することもある。クラスは学びの場であると同時に自分の将来をかけた戦いの場でもある。

 J先生のクラスは、生徒同士が一体になり、クラスでひとつの作品を作り上げる「きずな」を感じる。肌の色も、髪も、話す言語も(って私が理解していないだけじゃないか)異なる人々が集い、予想もつかなかった経験に出会っている。思い切って、外に出てきて良かったのだと。

 Un pour Tous 、Tous pour Un/ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために。

 孤独に慣れてはいても、ダンスは私に眠っていた熱い思いを呼び覚ます。まだ自分は行けるはず、もっと上を目指せるはずだと。守りに入るには早すぎる。仲間ともう一度、ほとばしる汗を流せるはずだと。フランスで、生きた手ごたえを掴もうと思った。私は外国人だ。いつかビザや、お金が尽きて、この国を去らなければならない日は確実にくる。その時に後悔しないように。今は苦しみで一杯のこの国に、最後ちゃんと、笑顔で手がふれるように、感謝できるように。

 自分が多くのエモーション(感動)を得て、ダンス熱をよびさまさせてもらえた感謝、あなたのもとで学びたいという意志さえ、J(先生)には伝えられない。強制的に自分をフランスに慣れさせようと努めてきたけれど、何ひとつ、語れる言葉がない。

 「見てもらえる」「分かってもらえる」で理解されることなんて一つもない。語学の上達なんて、「死んでも伝えたい」切実な何かがあってこそ、じゃないか。めっぽうフランス語が上手な日本人が居ても、内容にその人自身の体重が伴わなければただうまいだけ、何の印象も残さない。逆に少しぐらい間違っても、どうしてもこれを伝えたい、この人に、これを伝えねばならないんだという死に物狂いの一点さえあれば、遥かにそれは聞き手の心を打ち、強烈なインパクトを残す。

 ゆえに言語上達の最短の道は、好きなひとを作れとよく言われる。異性の恋人に限らない。同性でも、相手が子供でも年配でも構わない。心から信頼し、伝えたいと思う切実な言葉を胸の内に持てるような、そういう誰かに一人でも出会えたらいい。その人といくつかの会話を交わし、思いを共有することの方が、パリ市内の20の美術館を巡り、100の絵画をそらんじて「フランスを理解しました」というより、少なくとも私にとって、ずっと力強い手ごたえがある。(もちろん、絵画の研究をされていて、一枚の憧れつづけた絵の前に立ち、精神的な交歓を果たすのも、それは大きな意味のあることだ。)だから語学や、その国への入り方は各人それぞれ、全く異なる。

 「みんな」のために、と思える自分の居場所が、早く私も、この国で見つかるといい。自分のためでなく、誰かのために踊ろう。失われた時間を取り戻すことはできないけれど。

 戸を叩けば、未来は、仲間は、そこに居るはず。

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