Entre la poire et le fromage 

『洋ナシとチーズの間』 フランスのよしなしごとを徒然なるままに

グラナダ版ホームズ第3シリーズ第18話/The Adventure of the Abbey Grange『修道院屋敷』

 56ある短編小説のうち36番目に発表された作品。僧坊荘園(そうぼうしょうえん)とも日本訳でなっている作品があってまさか同一とは思わなかった(笑)

 強盗達が飲み明かした3個のワイングラスがキー。ロンドンへと戻る汽車の中で、「ワインの澱が一つのグラスにしか残っていなかった」ため現場に2人しかいなかったと導き出したからくり自体は特に目新しいものではない。 

 ただ映像化は成功した部類の作品。黒服紳士のホームズが泥まみれで外で探査を続ける、派手な盛り上がりはないにしろ、「動き続けるホームズ」が見られる。特に身体の軽さが目立ち、階段を降り、白いブラウスを巻くりあげて泥の河の中から石を拾い上げるといった動作は、そんじょそこらの役者がやってもダメ。荒々しさの中に、少々スパイス的に「男の品のよいセクシーさ」を漂わせるホームズ。というか、ジェレミーさん。

 妻を亡くして最初に撮った作品。この後、ジェレミーは心身ともどんどんバランスを崩していくが、実生活でそれを献身的に支えたのは、二代目ワトソン、エドワード・ハードウィックさんだった。

 さてストーリーに戻って。「法の裁きが必ずしも正しきことでない」が今回の教訓だけれど、それはホームズのような人格者でなければ引き受けられない判断であるというのがラストの会話でたたみかけるようにさくっと。

「犯人を見逃す」推理小説ではしばしば出てくるパターンだが、コナンドイルがホームズに言わせたのはそれには「great responsibilities(大きな責任)」が伴うということ。「見逃す」事と、それによって発生する別の、全ての責任。背負う覚悟のあるなしを、つまり全人格を問うようなスケールの深さがある。

 彼がそれだけの責任を負えるのも今回の人物を「信頼に足る」と見越してのこと。自分の感覚を信じることすら一つの才覚だと私は思う。非人間的みたいな言われ方をするホームズに、こんな温かな血がながれゆるしとしての行為=「強さ」の行動に繋がる。凡人じゃ無理なのよ。

 もうひとつ、それを可能にしたのは実はワトソンの存在が大きいというのは深読みか。

 ワトソンはもはや同居人でも、ただの相棒でもツッコミ役でもなく「ホームズを(苦悩や孤独を全て)理解できる」唯一の存在になっていて。

 ホームズは、周りから変人とみなされ孤独を自ら愛する。レストレードあたりはきっといいキャラなんだけれど、そんなホームズの、ほんとうにほんとうのこころ奥深くまでは引き受けてあげるような関係にはない。

 「二役(裁判官と弁護人)の重責を君が担うとは不安だよ」とホームズに早口で言ったワトソンの存在が、もうかけがえのないものであることは確か。

 ホームズ自身は、自分の孤独や天才ゆえの苦悩を気づいて欲しいという思いがあるのは確かだろう。でも一線を越えて他人にこちらのこころの内側まで踏み込ませるかと言ったら話しは別。決して誰も人の代わりにはなれないのだから。頼んでもない助けも同情も要らない、まして弱みなんか見せない。それがホームズ流。だから君の「気持ち」の部分は、俺がそっと引き受けたよ、と、そういうあったかいワトスンは、僅かな言葉に、ほんとうに彼の全てを理解しているんだといつもそういうメッセージを送りつづけている。